商い茶碗を超える成りに作りて!
私は、楽茶碗を作っている身なので、こんな事を言うのは可笑しいですが、楽茶碗は商いにするものでは無いとと感じます。
何故なら、楽の昔の作品である長次郎の作品をみていると、どうしてもそう思えて来るのです。
同じ感覚は光悦の作品にも感じます。
長次郎以降の代の作品は何故か手慣れている感じを受けてしまうのです。
どうしても製作者の眼で見てしまい、同じ造り方だよな!とか、この部分の削りはどれも同じだよな!なんて言う眼で見てしまい、その姿に商いを感じてしまうのです。
別の観点では、この削り方だから誰々の作品だと分る利点もあります。
ヤフオクの楽茶碗を検索すると、沢山の楽茶碗が出ています。
中には楽何代の誰々と言う作品も出品せれていて、多くの入札が入っている作品を見ますが、「これ明らかにちがうのになぁ〜!」なんて言うことは多々あります。
何故分かるかと言えば、手グセと手慣れがあるからなんです。
でも、楽初代と言われている長次郎には手慣れがありません。
こんな形はいいんじゃないか?こんな形はどうかな?なんて言うように、いろんな試行錯誤が造形に現れ、手慣れや手グセを感じさせないんです。
この感じは前述の光悦も同様です。
自分の作りたい形、自分が欲しい茶碗。
これは面白い茶碗!そんな感覚で茶道の用の美からは脱線しておらず、かつ自由に成りに作りてを実践しています。
楽茶碗が商いであっても、商いから抜け出した茶碗を作らねばなりませんね!