楽茶碗の意匠はミリ単位からセンチ単位へ
今日はある方に「楽茶碗の見方」を実地で教えに行きます。
その方は、お茶の先生ですが、今時の先生方と違い、その先生のお弟子さん達にも作法だけではなく、茶碗とは何かを教えたいがために、自分自ら肌で茶碗と言うものは何かを学ぶ姿勢は、嬉しい限りです。
茶碗も人間が使うものですから、人間社会と全く同じで、「箱書」や「誰々作」などが珍重され、また鑑賞の一番のポイントになっています。
それは、人間界のキャリア社会と同じです。
しかし、キャリアと同じく、その人間性はどうか?と問われたら、それはわかりません。
茶碗も全く同じで、そのキャリアと茶碗が茶碗として同格であれば最高ですが、キャリアに反する茶碗も存在します。
私は、一休時代の五山を思い出します。その当時は、大徳寺を筆頭として大きい寺は権威を持っていましたよね!
一休さんは、そんな権威とは関わらず、我が禅の道を説き、また自らを実行しました。
後小松天皇の落し子に関わらず。
私は自分の勉強のために、無名の江戸時代の茶碗を集めています。
その茶碗たちには、いろんな個性があります。昔の茶碗ですから、「用の美は」はしっかり押さえています。
そのポイントは外さず、己の個性を引き出しているのです。
また、抽象的な例となりますが、現代茶碗の意匠が1センチ単位で表しているとすると、昔の茶碗はミリ単位という感じなんです。
そこまでやるか!みたいな感覚を受けます。時間の流れなんでしょうかね!
コンピュータが出来てから、ドッグイヤー(進化が7年を1年とする進化の意)となり、その進化により人間界もスピードをドンドン増しています。
ですから、人間の感覚もそのスピードにつられて加速し、ミリ単位からセンチ単位となった感じがしてなりません。