楽茶碗の作為に対するオヤジの考え
今朝早く、「雨雲」の作り方の10回目をYouTubeにアップしました。
その動画内でも説明していますが、これからが細かい作業の連続になります。
光悦の作品はこの点がとても大変なんです。
何故なら、これからを適当にすると、あの光悦らしさ、強いて言えば「迫るような怖さと言うか強さ」が出て来ません。
そこが長次郎作品と異なるところです。
でも、その細かい造作を自ら学ぶと、他の光悦作品を写すときに、光悦がどのように作っていたかが、手を取るように分かるようになります。
また、自分のオリジナル茶碗を作る時には、その造作方法を使うことが出来るようになります。
ですから、細かい単純作業で、動画の見ごたえは全くありませんが、ここからか光悦の造作だということは覚えておいてくださいね!
そうそう、これも話でおかなければ。
世間では、「作為」は茶碗においては嫌われます。「無作為」こそベストだとね‼
また「無作為」も意識したら、それは「作為」であるとも言います。
何か禅問答のようです。
私が考えることは、楽茶碗においては、作為は必ずあります。
初めの段階である土の立ち上げにおいて「成りに作りて」と言って、立ち上がった形状から茶碗を作っても、その形から茶碗にするには、「用の美」を大事にしても、多少の造作をするために作為は必ずあります。
なので、作為を全く無くすことはできないのです。
でも、その作為にも沢山のカラーがあります。
● 自己を主張する作為
● カッコいい茶碗を作ろうとする作為
● 如何にも「らしく作る」作為
などなど。
これらの作為が出てしまうと、その茶碗は何故か落ち着きを失い、初めは良い茶碗だと思っていても、時が経つにつれて魅力を失う茶碗となっていきます。
この作為とは、人間と全く同じだと考えてください。
「如何にも俺は出来るんだ」と人にアビールしていたら、人はよく思いませんよね!
「私は世の中で一番美人よ」なんて周りに言っていたら、女性友達から嫌煙されますよね!
それと全く同じなんです。
禅問答のような難しいことは考える必要は一切ありません。
要は作為とは、作為があってもその作者にあっていれば良いのです。
光悦であれば、本家は刀の家業です。
小さいころから刀はいろいろ見てきて、また知識もあったでしょう。
その知識や刀の美しさを自分なりに茶碗に表現したかった。これこそが光悦の作為なのです。
単純な思いつきではなく、深く日本刀の美しさを理解し表現したかった。
このシンプルな思いこそが、光悦の作為。
そんな作為は悪いわけがありませんよね。
何となく「作為」にはカラーがあることが理解できましたか?
無作為の前に、その作為のカラーを理解し、皆さんが皆さんらしい自分のカラーなる作為を目指してくださいね!