楽茶碗は大嫌い!? でも茶碗を焼きに焼きまくる男『迷雲』のブログ

楽茶碗の製作は地味で熱いなどシンドイことばかりですが、楽茶碗師『迷雲』が製作を通して感じたこと、知っていること、時たま脱線したこと(いつもかな?)を書き綴っていきます。

長次郎の楽茶碗は何処で焼いたのか?

楽茶碗の祖師と言える長次郎は何処で今に残る名品の楽茶碗を焼いたのでしょうか?

長次郎は秀吉の聚楽第の「楽」の印を秀吉から賜ったと言われているので、京都で焼いていたと私も考えていましたが、「ちょっと待てよ!」なんて言う感じで頭の中に疑問符が浮かんで来るようになりました。

ご存知の様に、秀吉の当時のお城と言えば、聚楽第大阪城、そして伏見城がありましたね!

その城の中で、中心はやはり大阪城。すると大阪で長次郎は楽茶碗を焼いていた可能性も無きにあらずとなります。

でも、何か大阪で?と言う感じもしますよね!

今の楽家でも、三代の道入(のんこう)から、今の地に窯を構えたが、その前は違う所で焼いていたと言っていた記憶があります。

また、長次郎の窯跡も、まだ発見されてはいません。

でも、初期楽茶碗に於いては、土は聚楽第を築城するときに出た聚楽土で作られているというのが定説になっているので、どうしても京都の他の場所で焼いていたイメージがぬぐいきれません。

しかし、京都各地から工事に伴って発掘されている軟質低温釉陶器(楽茶碗でも楽家以外の楽茶碗をこのように言う)は出てくるのですが、初期タイプの茶碗ではないのです。

まだ、発見されていない可能性もありますが、今まで発見されたそれらの茶碗は全て乾山が出てきた江戸中期のものなんです。

なぜなら、初期タイプは伏せ焼きをしているのです。その伏せ焼きをした茶碗が発見されていないのです。

しかし、大阪では、大阪城の周りの各所で、その伏せ焼きをした軟質低温釉陶器の楽茶碗が多数発見されています。

この事から、初期タイプの茶碗が大阪で焼いていたのかも?と言う仮説が立てられるのです。

私の推測仮定なので、当てにはなりませんが、発掘されているされた茶碗を見る限り、そのような仮説が立てられるのです。

また、大阪の堂島で発見された窯跡が、とても気になります。桶窯(素焼き窯に似ている)に似てはいるのですが、細部に渡って綿密に設計されて作られています。

窯口は左右にサヤを設置して、熱を窯から逃がさないようなこともしています。

このような窯は今まで見たことがありません。

もしかしたら、長次郎は京都からで楽茶碗を焼いていたのではなく、大阪で焼いていたのかもしれません。あくまで仮説がですけどね‼f:id:mei-un:20170922213530j:plain

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