楽茶碗 「箱書き」や「一期一会」の必要性
私は茶碗を製作していますが、「箱書き」と言うものは好きではありません。茶碗に印を押しているので、茶碗を守る箱以外は必要無いと思うのです。
確かに現実には存在しませんが、信長や秀吉、また利休の「箱書き」が存在したら、とてつもない希少性を生み出すでしょう。
しかし、利休は茶碗には漆で書いた花押のある茶碗は存在しますが、信長や秀吉などはありません。
私の記憶では楽家四代の一入からではないかと思います。箱にも印を押していた感じがします。
これを「箱書き」と言うかはわかりませんが、茶碗とセットだと明白になったのは明らかだと。
その後、大徳寺や家元の「箱書き」が書かれるようになり、茶碗より「箱書き」に価値観が移ったように思います。
要は何々大学卒、某一流企業と言う看板と同じように、ブランド化されて行くことと同じなんですね!
茶道には「一期一会」と言う言葉があるようです。意味はここでは割愛しますが、あえて言葉にしなくても当たり前のことだと思います。
自服ならその言葉は必要ありませんが、相手がいるのであれば何のために茶をするのか!と問いたくなります。
人も物も形ある物はいつかは無くなります。これはかなしいかな自然の定めであり摂理です。
だからこそあえて「一期一会」と言葉にすること無く、形ある時を大事にしなければならないんじゃないかと思うのです。
「箱書き」も同様に記された内容ではなく、形ある茶碗や人を相手として、共に時間を共有することに価値があるように私は思えてなりません。