楽茶碗は大嫌い!? でも茶碗を焼きに焼きまくる男『迷雲』のブログ

楽茶碗の製作は地味で熱いなどシンドイことばかりですが、楽茶碗師『迷雲』が製作を通して感じたこと、知っていること、時たま脱線したこと(いつもかな?)を書き綴っていきます。

現代陶芸の世界感を捨てて過去へ!

今までこのブログを見てくれている皆さんは、何故こんなに石を砕いて石臼で摺ったり、フイゴを作ったりしているか、何となく理由が分かってもらえたでしょうか?

陶芸の世界ては石臼を使わなくてもポットミルはあるし、フイゴだって使わずにブロアーでもいいかもしれません!

でも、なぜ地道に遠回りしてシンドイ工程を歩むか?

実はオヤジなりに訳がありました。

過去の名作の良さを現した現代作品をいろいろ見ても、昔のような力強さはありませんでした。

それは生きている時代とその時の文化が違うから当然のことですが、そう肯定しても何かが異なることが疑問でした。

その疑問を解決するためには、なるべく当時と同じようにすることが大事ではないかと自分なりの仮定をしてみたのです。

この方法が最短であったかは、今もって分かりません。

でも、当時の工程の再現をすることで、たくさんのいろいろな陶芸界の知識では未知の知識が得られたことは確かです。

フイゴの知識は、島根まで出向いて日本刀の原料となるタタラにより得ました。

フイゴの吹き方や炭切りの知識も同様です。

フイゴがただの送風機ではなくて、圧縮された空気を送る機械だと言うことも製作して分かりました。

加茂川石と言うただの石を石臼により粉にして、実際溶けて黒楽になることも分かりました。

ただ、始めの内は、どれが加茂川石かも分からなかったんですよ!

実際に石を自ら溶かすと、どんな石でも溶かすことが可能だと思えるようになります。

また、観念的なことですが、窯の中の空気の量が分かるようになります。

これは経験からくるものだと思います。

結論から言えば昔の人は、今の陶芸界の考え方ややり方ではなく、当時のやり方から来る思考だということです。

形における作為もその典型です。

始めは作為だと思っていたことが、実は必然的にそのようになると言う経験は何回もありました。

その経験により、造形がここは必然的な動きであり、ここの造形は作為によるものだと言うことが見えてきます。

とりとめなく書きましたが、皆さんがもし昔の作品を再現したいという場合は、是非現代の陶芸世界の知識だけではなく、当時を想像してそこから再現してみてくださいね!

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