今日の見学者に思う
今日は朝から茶道の社中の方々の盆石の講義。
でも、楽茶碗の内容ではないので、一緒に仕事をしている女性が担当し、楽しい授業を行っていました。
講義も無事終了し、早めに帰宅しようとしていた矢先に、女性の見学者が来られました。
話を聞くと、現在楽茶碗を勉強されており、私のYouTubeやブログ、そしてHPを見てくれてわざわざ足を運んでくれたとのこと。
本当に有難いことです。
話をして感じたことですが、感性や思考が優れ、この方も是非とも入会していただき、頭だけではなく、体で楽を学んで頂きたい限りです。
楽茶碗には陰に見えない原理原則が存在します。焼きに於ても必然性があります。
それは単なる偶然や奇跡ではなく、限界まで追究した結果論があるのです。
その工程を知らずして結果論だけを見て判断することは非常に危険であり、実際の楽茶碗から考えると間違った判断が横行してしまうことになりかねません。
なので、何故このような焼き方なのか?
どのような釉薬を使ったのか?
この痕は偶然なのか、必然なのか?
など、ただ見過ごすのではなく、一つ一つ疑問を自分に投げ掛け、ある答えをだすことが大事となります。
考えれば考える程、その疑問符や結果論の是非を自分自身が検証したくなります。
その繰り返しをすることが、見えない確証に繋がっていきます。
これは科学や物理とおなじです。
仮定とその仮定の検証です。
時間は費やしますが、検証を繰り返せば繰り返すほど、核心に物事が向かっていきます。
これは言葉で書くと難しく聞こえますが、行動はいたって簡単。
例えば、フイゴは楽に必要か?
と言う疑問を抱いたとします。
そこで、フイゴを使って焼いたらどうなるか?
フイゴを使わないで焼いたらどうなるか?
双方を実験すれば、自ずと二つの答を得ることができます。
その二つの答を再度考えて、この場合はフイゴは必要なのか、必要ではないかの条件で仮定すると、それまでの実験による答から推測される答が生まれます。
ここまで来たら、後はその最終実験をする。
すると、自分なりの結果が導かれます。
自分なりの結果ですが、その正解率は非常に高く、後は他に違う方法が存在するかもしれないが、導いた方法は正解に含まれる方法であることになります。
昔の人々は現代とは異なり、見本がありません。
また量産品ではないので、毎回チャレンジの連続です。
加茂川石だけの釉薬に留まらず、景色を出すために、焼き方を変える、加茂川石になにか別のものをアクセントに加茂川石の施釉の上に加味するなど、チャレンジの連続だったと思います。
それは造形に於ても同じ。
こんな形はどうかな?
焼いてみよう。
出来たら今度は使い勝手はよいかな?
ちょっと手滑るな!
こんどは、釉薬をここまで融かすのは止めて、もう少し手前で引き出そう。
などチャレンジの連続だったと思います。
もし、楽茶碗に興味があり、作るのなら、初めはさる真似で構いません。
どんどん名作を真似てください。
真似る内に、なんでこのような形にしたのかが、次第に理解出来てきます。
そうしたら占めたもの。
次回作るときは、自分のテーマはあれど、作り込んでいくことになります。
過去の楽茶碗の偉大な製作者の名もなき先生たちが作った楽茶碗から学んだ多くのことが、自分の血となり肉となり作品に還元されてくるのです。
今日見学に来られた女性も是非その点に留意して学んで行って欲しいと思います。