楽茶碗は大嫌い!? でも茶碗を焼きに焼きまくる男『迷雲』のブログ

楽茶碗の製作は地味で熱いなどシンドイことばかりですが、楽茶碗師『迷雲』が製作を通して感じたこと、知っていること、時たま脱線したこと(いつもかな?)を書き綴っていきます。

長次郎の楽茶碗は何処で焼いたのか?第2

1つの前の話で、「大阪で長次郎は楽茶碗を焼いていたのかも?」と言う仮説をお話ししました。

京都は天皇がいる地です。その地にある聚楽第より、少し離れた大阪で政治をおこなったほうが、秀吉にとってやりやすい気持ちは何となく理解ですます。

ただ、大阪で焼いていたと言う仮説を立てましたが、完全に大阪で焼いていたとは言い切れないことが実はあります。

黒楽の釉薬となる加茂川石です。こらは、京都の加茂川で取れます。この石は黒楽を焼くためには必ず必要な原料なのです。

桃山時代に日本の陶器は一気に開花しましたが、黒楽と時を同じくして、瀬戸黒も出来ています。

特に瀬戸黒の初期は、黒の発色が力強く、鬼板の含有率もとても高く、漆黒の様な色合いです。

それが後半になると長石の含有率も増えて、漆黒と言うより、茶味がある色合いとなります。

ですから、黒の陶器に関しては同時期では、瀬戸黒と黒楽は兄弟のようなものなのです。

ただ、一方の釉薬の原料は鬼板。他方は加茂川石。

ぶっちゃけ、含鉄土石であれば、黒色は出るのです。

そう考えると、瀬戸黒と黒楽には情報の行き来があったのかもしれません。

なので、大阪では含鉄土石類が出ないので、京都で加茂川石を採取して大阪で焼いていたのかも。

そう仮定したとしても、それらの石の運搬は、船で何ら問題はありません。

京都の一条戻橋で末路はさらされる利休ですが、秀吉と上手くいっていた利休、そして長次郎との関係時は、やはり大阪の可能性があるような感じがしてきます。

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